• 単色化していく世界に抗う – 国際芸術祭あいち2025“灰と薔薇のあいまに”感想

    愛知芸術文化センター前にある、国際芸術祭あいち2025の横断幕。

    普段家の中にこもりがちな生活を送っているせいか、世の中で行われているイベントごとの情報に疎いのが悩みです。
    行ってみたいイベントに気付いても、もうチケットが取れなかったり、そもそも終了していた、なんてこともあります。

    「国際芸術祭あいち2025」が開催されていることを私が知ったのも、閉幕まで残り約1週間というタイミングでした。

    しかし、このイベントは観に行くべきだ、と感じた理由は、公式サイトでも最初に掲げられている、次のステートメント(声明)でした。

    国際芸術祭「あいち2025」は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(2007年)をふまえ、すべての先住民族および先住民のアイデンティティをもつ人々の歴史、文化、権利、そして尊厳を尊重します。

    また、民族や国籍、人種、皮膚の色、血統や家柄、ジェンダー、セクシャリティ、障がい、疾病、年齢、宗教など、属性を理由として差別する排他的言動や、その根幹にある優生思想(生きるに値しない命があるというあらゆる考え方)を許容せず、この芸術祭が、分断を超えた未来につながる新たな視点や可能性を見出す機会となることを目指します。

    近年、日本でもマイノリティの人々に対するヘイトスピーチや排外主義を唱える声がそこかしこで聞こえるようになり、また世界に目を向けても、戦争や虐殺によって人々の尊厳が危機に陥っている状況が続いています。

    上記のステートメントは、特定の事例に言及しているわけではないものの、今の社会のどんな空気を感じ取り、それにどんな主張をしているかが伝わってきます。

    私は何か引き寄せられるものを感じて、閉幕前に滑り込みで行くことにしました。

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  • 映画の「予告編」の楽しみ方 – 予告映像の種類・具体例について

    私は映画が好きですが、その一環として、映画の予告編映像を観ることも好きです。

    予告編というのは、単に映画の本編映像のサンプルや、公開日の告知だけに留まるものではないと思います。

    優れた予告編は、それ自体で映像作品にもなりえます。

    日々大量のコンテンツが上がる動画サイトでは、見どころのある予告編もすぐに埋もれるようになってしまいますが、それでも折にふれてまた観返したくなる予告編というのもあります。

    映画に限らず、ドラマやアニメ、ゲームなどにも予告編はありますが、今回は私が好きな映画に関して、「予告編」に絞った楽しみ方をご紹介します。

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  • 「99%無事でも1%欠けるだけで使えないもの」の話

    「99%無事でも1%欠けるだけで使えないもの」の話

    小学校4年生ぐらいの頃、学校の算数の授業で、コンパスを使うことがありました。
    円を綺麗に描くために使うあの器具です。

    本来は授業でしか使わないものですが、子供だったらどうしてもそれで遊びたくなるものです。

    先端の針が危ないので気を付けるように、という先生からの忠告を頭に入れておきつつ、ノートに好き勝手に絵を描いたり、あるいはそのシャープで少しスタイリッシュな見た目から、それを戦闘機とか宇宙船とかに見立てて空想する遊びもしていました。

    ある日、いつものように自分のコンパスを入れてある小箱を開けてみると、先端にあるはずの針が無くなっていることに気付きました。

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  • 今後の目標を立てよう(2025年10月版)

    私は色々なことに興味を持ちやすい性格で、すぐに「あれをやってみたい」「ここに行ってみたい」と思ってしまいやすい人間です。
    しかし、思っているだけで何も実行に移せないままになっている事も、かなり多くあります。

    考え事が多くなりすぎて頭の中でパンクしそうになっているので、今一度、自分がやりたいことは何なのか、目標を言語化してみたいと思います。

    目標は人に宣言した方が良いとか、逆にしない方が良いとか、どちらの説も聞いたことがあるのですが、今回は私が興味を持っていることの紹介も兼ねて書いていきます。

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  • 【ライブ感想】菅原圭 – live 2025 “knock, knock, knock” (渋谷Spotify O-EAST)

    終わる気配の見えない残暑の中、久しぶりに新幹線に乗り、久しぶりに東京へ行きました。

    渋谷Spotify O-EASTで行われる、シンガーソングライター“菅原圭”の、初めてのワンマンライブを観るためです。

    菅原圭ファーストワンマンライブ2025 渋谷O-EAST入口のサイネージ。

    これまで音楽のライブに行った回数はそれほど多い方ではなく、それも全て海外のアーティストのライブだったので、日本のシンガーソングライターのワンマンライブを観に行く日が来ようとは、夢にも思いませんでした。

    それでも一ファンとして、菅原さんの初のソロライブを観に行かないわけにはいきません。

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  • 空を撮ること

    画像上部の青空に薄雲が広がっている。画像下部、遠くの空には雲が立ち込め、山並みも見える。

    自分は普段、カメラで物の写真を撮ることをあまりしない人間ですが、それでもつい撮ってしまうことが多いのは、空の写真です。

    歩いていてふと空を見上げた時、見事な形の雲が浮かんでいたり、鮮やかな色の空が見えたりすると、足を止めて眺めていたくなります。

    特に好きなのは夕暮れ時の空です。
    東の青空が徐々に暗くなり、西の空が赤く染まり始める。夜を迎える前の限られた時間の劇的な光景。

    夕暮れの空の下の街並み。ビルや住居に明かりが灯り始める時間帯。画像の奥の空は夕陽で照らされている。

    夕暮れというもの自体は、晴れている日ならいつでも見られるものだから、そこに珍しさを感じないという人もいるかもしれません。

    しかし、よく考えてみれば、今日この日と全く同じ空は、過去にも未来にもないわけです。
    雲の形や空の明るさは、同じ時間帯であっても日が変われば違うものになっていきます。

    その空を見ることができるのは、いつでも一度切りであり、人にはそれを再現することはできません。

    ふと見上げた空の光景、それに対して覚えた感情、その時点に至るまでの自分の人生の経過。

    そういったものを思い出せるように、私はスマートフォンのカメラを掲げて写真に残したくなります。

    それに、空は誰の所有物でもないので、写真を撮る時にお伺いを立てなくても良いから気が楽です。

    今後も、空の写真をぽつぽつと投稿していくかもしれません。

    画像下部に富士山のシルエットが見え、画像上部は夕陽に照らされた曇り空が見える。
  • このブログの名前について

    このブログサイトの名前を決めるまでには、それなりの時間がかかりました。

    これは自分の性格の問題だと思いますが、小説を書く時にも、キャラクターの名前や地名などの固有名詞を考えるのを、たいてい後回しにしがちで、それぐらい名前決めが苦手です。

    名前を考える時に、何かの法則性に基づくという方法があります。
    魚の名前だったり、花の名前だったり。偉人の名前や神話に出てくる名前のパロディだったり。

    このブログの名前を考えている時も、私の好きな言葉からの影響を大きく受けていました。
    私の頭の中でこだましているフレーズ。自分の中の声で反復していくうち、自分自身を形作るようになっていく言葉。

    現在の私の意識に、特に大きな影響を与えている本の一つが、コーマック・マッカーシーの小説『越境』です。

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  • 序文:窓を開ける

    ブログを始める準備を整えたは良いものの、最初の言葉としてここに何を書くべきか思い浮かばないまま、かなりの時間が経ちました。

    書きたいことは確かにあるはずなのに、それを頭の中から言葉として外に出そうとすると、途端に見失ってしまいます。

    以前の自分だったら、白紙に言葉を書き出していくことにそれほど苦労しなかったと思いますが、もうその力も衰えてしまったのかもしれません。

    実際、この数年間、私は文章らしい文章を何も書いていませんでした。

    かつての私は、こことは別のブログやSNSのアカウントを持っていて、書くという活動を自己表現にしていました。
    しかし、精神的な不調が原因でそれができなくなり、やがてブログもSNSも全て止めてしまいました。

    (また機会があればこの話は詳しくするかもしれません。)

    言葉を書くという行為は、自分という存在の中心にあったはずなのに、時が経てばそれも簡単に忘れてしまえるようでした。

    何も書かず、表現もしないでいるのは、それにまつわる悩みや苦しみも感じずに済むので、確かに気楽ではあります。
    努力することもなく、絶望することもない、ただひたすら思考が自分の内側に向くだけの日々。
    外の世界の砂埃や匂いや雑音を入れないために、部屋の窓とカーテンを閉め切って、世界から自分を隠しているだけの人生。

    それでも、時が経つにつれて、私の中に再び、何かを書きたいという衝動が強くなるのを感じるようになりました。

    理由は色々ある気がしますが、いつか来る、自分の人生の終わりのことを、より意識するようになったからかもしれません。
    有限の時間の中で何をしたいかを考えた時、私は気付きました。結局私は、自分の言葉をこの世界に伝えたいという思いを、捨て切れていないのだと。

    以前の私の言葉は、それほど多くの人に伝わったわけではありませんが、それでも読んでくれた人の感想を目にすると、喜びを感じました。
    誰かしらの心に、何かしらの感情を呼び起こす言葉を書けたのなら、私はその人の役に立てたのだ、と思えます。

    言葉を書くことは、私にとって、自分自身を理解する試みであり、心を躍らせるような営みであり、より良い世界のための祈りでもあります。

    そのための第一歩として、私は再び、この部屋の窓を開けることにしました。

    久しぶりに感じる風は、心地良さも不安も両方感じさせます。
    それでも、そこが私の生きている世界なのだということを、改めて私に思い出させてくれました。